18/11/15(木)快晴。
☆今日は、恵那南高校の人権講演会。12時12分、瑞浪駅で友人の川瀬さんとドッキングし、途中、「大正村」前の店でコーヒーを飲む。歴代村長さんは、高峰三枝子さん、司葉子さん。いまは竹下景子さんだとか。▲2時、体育館に。百人ほどの生徒さんが床に座ってくれている。「いのち生き合う─わたしの歩んできた道」と題し、50分間、「比較と競争」の世界で生きてきたわたし自身の「間違い・失敗・挫折」体験を紹介しながら、「正しい答えを覚えようとせず、『なぜ?どうして?』を大切にして、身近なところから深く感じ、広く考えるようにしてほしい」と語りかける。大きくうなづく人がいる。ハグし合い、握手し合う。終わったら拍手が起こった。校長さんは生徒の中に入り込むスタイルに驚いておられた。「藤田さんのお顔が輝いていました」とおっしゃるので、「孫たちへの遺言のつもりで語りかけています」とご返事する。4時前、瑞浪から岐阜に向かう。車中の読書は、片岡佳美『子どもが教えてくれた世界─家族社会学者と息子と猫と』(世界思想社)。5時半、イオンのプールでシャワーを浴びる。イオンは今日5%引き。買い物はカミサン依頼の「野菜ジュース」と「ブラックニッカ・クリアブレンド」4Lなど。帰宅は7時。

☆岸政彦(社会学者)「『たまたま』を生きる 猫とは─人生である」(「思考のプリズム」11/14E)〇おはぎときなこという猫を拾ったのはもう20年近く前だが、子どもができなかった私たち夫婦にとっては子どもかそれ以上の存在で、これまでずっと仲良く家族4人で暮らしてきた。しかしちょうど1年前、きなこが亡くなった。1年経てもまったく悲しみが癒えない。(略)私と連れ合いは、すべての猫のなかからもっとも可愛い個体を2匹選んで拾ったのではない。たまたま、当時の職場に捨てられて泣いていたのを、連れて帰ったのだ。(略)たまたま目が合った存在を連れ帰って、そして20年という長い時間をその世話に費やすというのは、要するに、たまたま出会ったにすぎないこの2匹の猫に、人生のその時間を捧げるということである。(略)たまたま出会っただけの猫を、私たちは終生可愛がるのである。猫は人生である。私たちの人生も、すべての条件を比較して、最善のものを選んでこうなったわけでは決してない。たまたま私たちは、私たちという存在に生まれついて、そして自分の人生を「生かされて」いる。(略)私たちは猫を拾っているのではなく、言うなれば、私たちの人生そのものを拾っているのである。だから、道端に捨てられて泣いている子猫は、まさに、道端に捨てられて泣いている私たちの人生である。私たちは路上で、ペットショップで、私たちの人生と出会うのである。(略)猫や犬は、人生以上のものだ。だから私たちは、この宇宙に偶然生まれた自分たちの、最初で最後の短い人生のなかで、たまたま出会っただけの猫や犬に、その大きな部分を差し出すのである。▲「たまたま」の連発。一読、その「大仰な表現」に辟易し、再読、その思索の深さに共感した。「たまたま」は、いのちのありようと生き合い方の偶然性を表わす。その意識化から、すべては始まる。今夜は、ここまで。ではまた。おやすみなさい。