17/5/31(水)曇り。
☆8時、携帯の目覚ましで起床する。チャチャをオアシス動物病院に連れて行く。体重3.86㌔、体温37.8度。まずまずというところか。プールで遊ぶ。買い物は少しだけ。午後、「きだいじ歯科」で、新しい義歯を調整してもらう。帰宅して5月分の家計簿をしめる。すべて必要経費と納得。アッハッハ。▲孫は3人とも元気に、わが家に帰ってくる。一希は短時間、宿題に集中。カミサンに褒められていた。学校で宿題をすませた眞一は友だちと遊ぶために飛び出した。莉子は6/14の「ハートフル人権ライブ」に、わたしが出かけることを先生からまだ知らされていないみたい。学校には学校の都合があるのだろう。
☆NPOなら人権情報センター『人権なら』(17/6/1)が届く。〇米田富記念碑を清掃─五條市にある米田富さんの「記念碑」を5月7日、清掃した。毎年、取り組んでいる。この日は朝から晴れ上がり、汗ばむ陽気となった。記念碑には「運動は 自己変革からはじまるもんや だから自己にきびしく 運動には誠実にと わたしは闘い続けてきた」と刻まれている。米富さんが1988年5月4日に死去して、29年が経つ。石碑が建立されたのは2000年5月4日。このとき、除幕式と集いが盛大に行われた。(略)2010年5月8日、記念碑前で集いが開催された。山下力さんは「解放同盟の解散とNPOなら人権情報センターへの移行、反差別・人権交流センター(絆)の立ち上げを進めてきた。このことを、米田富さんはどう思っておられるのか」と感慨深げに問いつつ、この先が決して平坦でないことを改めて噛みしめている、と語っていた。集いには、藤田敬一さん、金城実さんも駆けつけてくださった。▲米田富さんと初めてお会いしたのは1974年、「部落解放全国青年集会」(名古屋市)だった。車に同乗させていただいたとき、「専従活動家が必要なことはわかるが、それでいいのかと考えると、眠れなくなるんですわ」と、米田さんはつぶやいた。「全国水平社のころは、自腹で、ときには親の金をくすねて、各地を飛びまわったもんです」とも。「理屈と膏薬はどこにでも付く」というのは、米田さんの名言のひとつ。理屈を振りまわすことを嫌った。1987年5月、『同和はこわい考』をお送りしたあと、入院中の米田さんを見舞ったら、ベッドに横たわった米田さんが笑いながら、「あの本、誰かが持って行ってしもうて」とおっしゃったことが忘れられない。部落解放運動で多くの人と出会ったが、米田さんはその誠実な人柄といい、生き方といい、最も感銘を受けた方だった。
☆「戦争知らぬ世代へ 92歳の憂慮」(無職、M・H。熊本県・92歳。「声」5/26M)〇眠れぬまま司馬遼太郎著「街道をゆく22」を読む。「一九二五年(大正十四)悪法として有名な治安維持法が制定され・・・」。目覚めると、新聞に「『共謀罪』 採決強行」の見出し。戦争を経験していない世代って怖い。92年前もこんな空気だったのだろうか。1931年の満州事変、内地はまだのんきだった。36年の2・26事件、38年制定の国家総動員法下でも物不足を感じる程度。41年の真珠湾攻撃。「戦闘状態に入れり」のニュースにも、すぐには戦争が始まったとはわからなかった。一方、「戦争はやめた方が」と聞けば子どもでも震え上がった。「特高がくるよ」と。戦争に批判的な編集者が逮捕・勾留されたことは戦後になって雑誌で知った。今にえらいことになる。経験した私は骨身にしみて感じるが、若い人は経験していない。この怖さが分からないのもしょうがない。35年の新興熊本大博覧会で、いとこ3人と大笑いする写真が残る。その10年後、終戦の年。一人は33歳、父になる直前に8月の戦地フィリピンで。一人は23歳、傷病兵の治療中の感染がもとで。私と同い年の19歳は長崎の原爆で。私以外は全員死んだ。▲敗戦(終戦)時、6歳だったわたしは「戦争を知らぬ世代」に属するといっていい。先日、「戦前、戦中のように『言論の自由』を侵される時代を拒否する」と投稿された千葉県の91歳の男性とともに、この女性の「声」も厳粛に受けとめたいと思う。
☆岐阜県環境生活部長名で「岐阜県人権懇話会委員の就任依頼」文書が届く。任期は17/5/27から19/5/26まで。もちろんよろんでお引き受けする。任期終了時、わたしは80歳。心身の健康維持に留意して務めを果たすつもりだ。▲今夜は、ここまで。ではまた。
☆8時、携帯の目覚ましで起床する。チャチャをオアシス動物病院に連れて行く。体重3.86㌔、体温37.8度。まずまずというところか。プールで遊ぶ。買い物は少しだけ。午後、「きだいじ歯科」で、新しい義歯を調整してもらう。帰宅して5月分の家計簿をしめる。すべて必要経費と納得。アッハッハ。▲孫は3人とも元気に、わが家に帰ってくる。一希は短時間、宿題に集中。カミサンに褒められていた。学校で宿題をすませた眞一は友だちと遊ぶために飛び出した。莉子は6/14の「ハートフル人権ライブ」に、わたしが出かけることを先生からまだ知らされていないみたい。学校には学校の都合があるのだろう。
☆NPOなら人権情報センター『人権なら』(17/6/1)が届く。〇米田富記念碑を清掃─五條市にある米田富さんの「記念碑」を5月7日、清掃した。毎年、取り組んでいる。この日は朝から晴れ上がり、汗ばむ陽気となった。記念碑には「運動は 自己変革からはじまるもんや だから自己にきびしく 運動には誠実にと わたしは闘い続けてきた」と刻まれている。米富さんが1988年5月4日に死去して、29年が経つ。石碑が建立されたのは2000年5月4日。このとき、除幕式と集いが盛大に行われた。(略)2010年5月8日、記念碑前で集いが開催された。山下力さんは「解放同盟の解散とNPOなら人権情報センターへの移行、反差別・人権交流センター(絆)の立ち上げを進めてきた。このことを、米田富さんはどう思っておられるのか」と感慨深げに問いつつ、この先が決して平坦でないことを改めて噛みしめている、と語っていた。集いには、藤田敬一さん、金城実さんも駆けつけてくださった。▲米田富さんと初めてお会いしたのは1974年、「部落解放全国青年集会」(名古屋市)だった。車に同乗させていただいたとき、「専従活動家が必要なことはわかるが、それでいいのかと考えると、眠れなくなるんですわ」と、米田さんはつぶやいた。「全国水平社のころは、自腹で、ときには親の金をくすねて、各地を飛びまわったもんです」とも。「理屈と膏薬はどこにでも付く」というのは、米田さんの名言のひとつ。理屈を振りまわすことを嫌った。1987年5月、『同和はこわい考』をお送りしたあと、入院中の米田さんを見舞ったら、ベッドに横たわった米田さんが笑いながら、「あの本、誰かが持って行ってしもうて」とおっしゃったことが忘れられない。部落解放運動で多くの人と出会ったが、米田さんはその誠実な人柄といい、生き方といい、最も感銘を受けた方だった。
☆「戦争知らぬ世代へ 92歳の憂慮」(無職、M・H。熊本県・92歳。「声」5/26M)〇眠れぬまま司馬遼太郎著「街道をゆく22」を読む。「一九二五年(大正十四)悪法として有名な治安維持法が制定され・・・」。目覚めると、新聞に「『共謀罪』 採決強行」の見出し。戦争を経験していない世代って怖い。92年前もこんな空気だったのだろうか。1931年の満州事変、内地はまだのんきだった。36年の2・26事件、38年制定の国家総動員法下でも物不足を感じる程度。41年の真珠湾攻撃。「戦闘状態に入れり」のニュースにも、すぐには戦争が始まったとはわからなかった。一方、「戦争はやめた方が」と聞けば子どもでも震え上がった。「特高がくるよ」と。戦争に批判的な編集者が逮捕・勾留されたことは戦後になって雑誌で知った。今にえらいことになる。経験した私は骨身にしみて感じるが、若い人は経験していない。この怖さが分からないのもしょうがない。35年の新興熊本大博覧会で、いとこ3人と大笑いする写真が残る。その10年後、終戦の年。一人は33歳、父になる直前に8月の戦地フィリピンで。一人は23歳、傷病兵の治療中の感染がもとで。私と同い年の19歳は長崎の原爆で。私以外は全員死んだ。▲敗戦(終戦)時、6歳だったわたしは「戦争を知らぬ世代」に属するといっていい。先日、「戦前、戦中のように『言論の自由』を侵される時代を拒否する」と投稿された千葉県の91歳の男性とともに、この女性の「声」も厳粛に受けとめたいと思う。
☆岐阜県環境生活部長名で「岐阜県人権懇話会委員の就任依頼」文書が届く。任期は17/5/27から19/5/26まで。もちろんよろんでお引き受けする。任期終了時、わたしは80歳。心身の健康維持に留意して務めを果たすつもりだ。▲今夜は、ここまで。ではまた。