2015年02月

東京・品川「日帰り出会い旅」

15/2/27(金)曇り。

☆夜中の咳は止まり、熟睡して9時起床。朝刊をざっと見て家を出る。12時過ぎ、JR岐阜駅構内の吉野家で「牛すき膳」(630円)を食べた。美味しかった。
 名古屋駅13時42分発の「のぞみ」で品川に向かう。車中の読書は、阿部彩『子どもの貧困Ⅱ─解決策を考える』(岩波新書)。副題にあるとおり「子どもの貧困を解決するにはどうしたらいいか」と政策提言することを目指したものだが、著者は「あとがき」に、「本書が『解答』となっていないことは、私自身、痛感している。あまりに不十分なので、今の状況で人前にこれを出すのは恥ずかしいという気持ちも多々ある」と書いている。読後感は、一言で申せば、「隔靴掻痒(かっかそうよう)、じれったい」。しかし、だからと言って著者を批判しようとは思わない。「貧困状態におかれている子どもを救うために何が求められているか」を見通すためのグランドデザインを大まかにでも描いたことに意味がある。
  静岡駅を通過するあたりで、冠雪の富士山を眺める。品川駅着3時16分。改札口に、人権啓発室長のKさんと、その横に静岡支社の研修で大変お世話になったO君がいるではないか。わたしが来ると知って待っていてくださったという。互いに再会を喜び合い、握手を交わす。

☆出席者は55人。若い人が多いようにお見受けした。「仕事と人権─身近なところから考えるために」と題して、休憩10分間を挟んで3時半から5時半まで語りかける。今日は、前列の若い二人の女性職員に協力してもらった。「言葉や知識から出発するのではなく、日常のありふれた事柄に潜む『人間と差別』の問題に気づいてほしい」とお願いする。わたしは、出席者の目を見つめ、「いまわたしは、あなたに話しかけているんですよ」と伝えるようにしている。すると、彼/彼女は、確実に目で応答してくれる。JR東海に招かれるようになって15年。職員の真剣なまなざしに励まされてきた。今日もそうだった。5時半終了。品川発5時54分の「のぞみ」で帰る。車中の読書は、三島亜紀子『児童虐待と動物虐待』(青弓社。05/6)。日没時間が早くなって、夕闇の富士山は見えず。

☆9時、帰宅。夕食は「煮込みうどん」。これがまた美味しかった。一杯やりつつ今日の新聞をチェック。「池上彰の新聞ななめ読み─皇太子さまの会見発言─憲法への言及 なぜ伝えぬ」(2/27M)に目が止まる。
  〇記者会見に出席し、同じ話を聞いたはずの記者たちなのに、新聞社によって内容が異なる。こんなことは、しばしばあります。記事を読み比べると、記者のセンスや力量、それに各新聞社の論調まで見えてくることがあります。2月23日は皇太子さまの誕生日。それに向けて20日東宮御所で記者会見が開かれ、その内容が、新聞各社の23日付朝刊に掲載されました。朝日新聞を読んでみましょう。(略)
  同じ記者会見を毎日新聞で読んでみましょう。こちらは戦後70年を迎えたことについて、「我が国は戦争の惨禍を経て、戦後、日本国憲法を基礎として築き上げられ、平和と繁栄を享受しています」と述べられたそうです。
皇太子さまは、戦後日本の平和と繁栄が、日本国憲法を基礎としていると明言されたのですね。以前ですと、別に気にならない発言ですが、いまの内閣は、憲法解釈を変更したり、憲法それ自体を変えようとしたりしています。そのことを考えますと、この時点で敢(あ)えて憲法に言及されたことは、意味を持ちます。今の憲法は大事なものですと語っているからです。(略)
  こんな大事な発言を記事に書かない朝日新聞の判断は、果たしてどんなものなのでしょうか。もちろんデジタル版には会見の詳報が出ていますから、そちらを読めばいいのでしょうが、本紙にも掲載してほしい談話です。他の新聞はどうか。読売新聞にも日本経済新聞にも、この部分は出ていません。毎日新聞記者のニュース判断が光ります。(略)
  ▲わたしは「朝日」一紙だけ購読している。息子(K2)が持って来てくれる「毎日」を読むこともあるが、紙面を読み比べる習慣がない。しかし、池上さんのコラムで、そこに陥穽(落とし穴)があることを再確認した。池上さんは皇太子発言にある「謙虚に過去を振り返る」の「謙虚に」という文言にも触れ、「このところ、日本の戦争の歴史評価をめぐって『謙虚』ではない発言が飛び交っていることを意識されての発言なのだな、ということが推測できる。皇太子さまの、この言外に含みを持たせた発言を、他紙はどう報じているか」と文章をつなぐ。「日経新聞は『謙虚に過去を振り返る』の発言の前に、『戦後生まれの皇太子さまは天皇、皇后両陛下から折に触れて、原爆や戦争の痛ましさについて話を聞かされたという』と書いています。天皇ご一家が、戦争の悲惨さと平和の大切さを語り続けてこられていることがよくわかる文章です。朝日新聞の記事では、こうした点に触れていません。記者やデスクの問題意識の希薄さが気になります」と締めくくっている。
  天皇・皇后お二人のこの間の言動とつなげて考えれば、皇太子の会見発言が「宮内庁と相談しながらのギリギリのコメントだったのではないか」という池上さんの推測は当たっていると思う。それが分からないようでは記者としてはアカンなあ。

☆明日は「資源ゴミ」をJA七郷支店の集積場に運ぶために8時起床の予定。今夜はここまで。これからお風呂に入って寝ます。ではまた。おやすみなさい。
 

昨夜は、咳に苦しんだ。

15/2/26(木)雨。

☆昨夜は咳が止まらず、2時半、7時半と目が覚めてしまう。夜中、「咳止め」カプセルを1錠服用するも効かず。参ってしまった。11時半、起床。
 午後、プール。4時、保育園。一希は元気よく部屋から飛び出してくる。帰宅すると、靴を乱雑に脱ぎ捨てた。「お~い!一希君。靴の並べ方がおかしいよ」と声をかける。一希は2階から降りて来て、自分の靴を整えたあと、何と莉子ちゃんの靴の左右を逆さまにするという小細工に出た。「こらっ!アカンやんか」と注意したら、笑いながら元に戻した。こういうところに、「遊びこごろ」を楽しむ一希の成長を感じる。

☆船橋洋一(日本再建イニシアティブ理事長)「危機に弱い日本の組織」(21世紀シンポジウム「減災~明日への備え」2/18M)。
  〇東京電力福島第一原発事故について、国会事故調の黒川清さんは「メイド・イン・ジャパンだ」と英語版の報告書で述べている。の本の組織文化の特質が、危機対応に色濃く映し出されていると思う。(略)最大の教訓は、備えがいかに重要かと思い知らされたこと。予防する、準備する、対応する、三つそろって「備え」。原発事故はそのどれも問題があることを示したが、特に「対応」の部分がすぽーんと抜けた。
  全体をみて、全体をつかんで、全体を動かして危機にあたることが日本の組織は苦手だ。部分最適解が全体の最適解に優越してしまう。組織の中で、前例を変えなきゃだめと言えない。評論家の山本七平は旧日本軍に関して「現実的解決を心理的解決に置きかえようとする」と書いている。原子力の安全神話も、現実として求められる「安全」を、「安心」で置きかえようとしたところから生まれたと考える。
 ▲講演の要約だから解りにくいが、とりあえずは、船橋洋一『原発敗戦─危機のリーダーシップとは』(文春新書。14/2)を読むことをお勧めする。船橋さんは「朝日」の記者時代から注目してきたジャーナリストだ。「危機に弱い日本」が世界的規模で軍事行動を展開するとすれば、その先は目に見えているのではないか。

☆明日は、JR東海・新幹線品川駅上のビルでの「人権研修会」。2011年3月11日から4年ぶりだ。前回は、東日本大震災のため途中で打ち切った。明日は、そのリベンジというか。9時起床の予定。目覚ましをセットする。ではまた。おやみなさい。

「一つの妖怪がヨーロッパにあらわれている…」(修正あり)

15/2/25(水)晴れ。相変わらず暖かい。

☆ゆっくり起床。咳き込むことがあるが、もう大丈夫。午後、「マッサン」を観たあと、朝刊をチェックする。

☆「曽野さん、南アの現実を見て」(会社経営、吉村峰子さん。朝日「ハフポスト」2/25M)。
  〇作家・曽野綾子氏のコラムが「アパルトヘイト(人種隔離)擁護だ」と波紋を呼んでいる。20~30年前に南アフリカの実情を知って「居住は人種別に」と唱えた内容で、曽野氏はその後「アパルトヘイトを称揚していない」と反論している。現地に住む吉村峰子さんは「南ア永住の日本人より曽野綾子さんへ」(18日)で、白人専用だったマンションに黒人家族が一族を呼び寄せたため、共同生活が破綻(はたん)したという曽野さんの論拠について、当時、それほど裕福な黒人層はほとんどなく、「胡散(うさん)臭い」と疑問を呈する。さらに、吉村さんの大学生の娘がケープタウンの共同住宅で多様な人種と一緒に暮らしていることにも触れ、「命をかけてこういう現実が来るよう戦ってきた(元大統領の)故ネルソン・マンデラさんはじめ多くの南アの人々にどんな説明をするのでしょうか」と、曽野氏に問いかけている。(中野渉記者)
  ▲曽野綾子さんの2/11付「産経新聞」コラムの文章は、『週刊ポスト』(3/6)で読んだが、曽野さんの「黒人と居住空間を共にすることへの生理的嫌悪感」が露骨に出ているだけでなく、「居住空間の政治的政策的分離」を提唱するものと理解されてもやむをえない内容だと思う。曽野さんや産経新聞、『週刊ポスト』などからの反論があっていいし、それへの再反論もあってしかるべきだ。大事なのは、「人種・民族の和解と関係の修復をはかる取り組みの困難さ」への真摯な姿勢だろう。曽野さんの文章には、それが欠けている。「朝日」の取材に「私はアパルトヘイトを称揚したことなどありませんが、『チャイナ・タウン』や『リトル・東京』の存在はいいものでしょう」などと応答しているところからも(2/17M)、曽野さんに「言説・言論に関わる者としての責任」について自覚がないことが分かる。困った人だよなあ。

☆昨日のブログで紹介した斎藤環さんの文章の冒頭、「日本の言論界に妖怪が徘徊(はいかい)している。『キャラの立った高齢者』という妖怪が」という一節が、マルクス=エンゲルス『共産党宣言』のモジリだと気づいた人はそう多くないかもしれない。『宣言』は、「一つの妖怪がヨーロッパにあらわれている、─共産主義の妖怪が」で始まる。わたしが読んだのは『共産党宣言・共産主義の原理』(国民文庫。57/7第9版。定価50円)だ。おそらく大学入学後まもなく買ったものにちがいない。あのころ、社会科学の学習会は『共産党宣言』が最初のテキストだった。拙い字による書き込みからは、「学ぼう」という姿勢が強く滲み出ていて、批判的に読もうとする気概が伺えない。わたしの誤りは、すべてそこに胚胎(はいたい)する。生活体験と実感に裏打ちされない「概念と理論」から脱却し始めるのは、69年の大学闘争、70年代からの部落解放運動での挫折を経てからだった。いま、わたしは自分の感性を大切にしようとこころがけている。「義理と無理と厄介」感から解き放たれて、伸びやかに、深く広く「人間と差別の問題」について思索したいと願っている。

☆午後、プール。4時過ぎ、保育園。「きりん組」さんたちは園庭でドッジボールを楽しんでいた。一希は、わたしを見つけると飛んできて抱きつく。井川先生が、「一希君は昨日、当番としていろんな役割を果たしてくれましてね。うれしかったです」とおっしゃる。やはりそうだったんだ。大人はすぐ「当番って何をしたの?」と一口での回答を求めやすい。しかし子どもにとっては「一口での説明」は難しい。それよりも、当番になって楽しかったこと、しんどかったことを丁寧に聞き出すことが大事なんだなと反省する。

☆「白杖は危険物じゃない─愛知県議会 持ち込み制限─障害者団体が抗議」(2/24M)。
  〇傍聴を望む視覚障害者に対し愛知県議会が白杖(はくじょう)の持ち込みを制限しているため、名古屋市の障害者団体「愛知障害フォーラム」が23日、改善を申し入れた。県議会は白杖を「危険物」としており、持ち込みには議長の許可が必要。団体は「差別だ」と抗議した。(略)抗議に加わった名古屋市の横井由夫さん(59)は議会事務局に「どこへ行っても白杖を預かると言われたことがない。議長の許可が必要なこと自体が問題」と伝えた。▲こういう慣行の理不尽さに気づかないところに「人権感覚の鈍さ」が表われる。こころしたいものだ。

☆今夜はここまで。これからお風呂に入って寝ます。ではまた。おやすみなさい。

一希がクラスの当番になったという。

15/2/24(火)晴れ。暖かい。

☆二度寝して、目覚めたのは12時過ぎ。「こころ旅」スペシャル、ついで「マッサン」を観る。朝刊をチェック。

☆斎藤環(精神科医)「寄稿 差別発言 キャラで免責─『あの人だから』目をつぶるメディア」(2/24M)。
  〇日本の言論界を妖怪が徘徊している。いきなり何事かと思われたかも知れないが、とりあえず曽野綾子氏は間違っている。彼女が2月11日付産経新聞に記したアパルトヘイト容認コラムのことだ。彼女はこう書いたのだ。「南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」と。彼女はその後のインタビューなどにおいても「差別ではなく区別」などと弁明しているが、これが差別主義者の常套句(じょうとうく)であることは論を俟(ま)たない。(略)むしろ残念だったのはこの発言へのまともな批判が、おおむね海外発だったことだ。(略)なぜ日本のマスメディアはすぐに反応しなかったのか。これも現政権による言論統制の成果なのか。おそらくそうではない。今回のコラムは「あの曽野綾子氏」が、いかにも「あの産経新聞」に書きそうな内容だった。つまり〝平常運転〟なのでニュースバリューはなかった。(略)
  曽野綾子氏は自他共に許す保守論客だ。しかも、たいへんキャラの立った言論人だ。過去にも「性犯罪に遭った被害者にも落ち度がある」「(震災直後に)放射線の強いところには高齢者を行かせよ」などの語録が知られており、まともな言論人なら、たとえ思っていても口に出せない〝ホンネ〟を代弁してくれる貴重な存在である。(略)そして、ここに陥穽(かんせい)がある。
  キャラの立った保守論客のトンデモ発言すらも、「ああいうキャラだからしょうがない」と笑い、「ツッコむだけ野暮(やぼ)と免責する程度には寛大だ。しかしこれは、「立ったキャラ」の言動については責任能力を問わない、という意味で差別的であり、キャラの人権の否定にほかならない。保守論壇人といえども人権は尊重されなければならない。私は曽野氏の人権回復のためにも、メディアが彼女をキャラとして差別し消費することに、強く反対するものである。
  ▲つまり、斎藤環さんは、「キャラの立つ保守論客の発言」に対する日本のメディアの反応は曽野綾子氏への差別・人権侵害そのものであって、真っ当に向き合うべきだ」と言う。外電が先行して、国内メディアが追随するという、ありきたりのパターンに潜むメディアの「保守論客の持論」慣れを衝いている。「検証 曽野綾子コラム論争─『差別と移民』」(『週刊ポスト』3/6号)も読んだが、歯切れが悪いと言うか、的外れと言うか。さて「朝日」はどう検証するか。

☆体調も戻ってきたので、午後、プール。4時半、保育園。「一希君は行動が活発で、今日の当番さんにしました」と井川先生がおっしやる。帰りの車中での対話。「一希君。当番って、どんなことをするの?」「おじいちゃんには言わない」「どうして?教えてよ」「忘れた」。たぶん、いろんな役回りがあったのだろうが、それを説明するのが面倒、邪魔くさいということらしい。その気持、よく分かる。

☆「森絵都さん(作家)と訪ねる老犬ホーム─ぎりぎり たどり着いた場所」(2/23M。中村真理子記者)
 〇ペットフード協会の全国犬猫飼育実態調査によると、全国で飼われている犬は1034万頭、猫は995万匹(2014年10月現在)と推計される。犬猫をあわせると、15歳未満の子どもの数、1619万人(総務省統計局、2月1日現在)を大きく超える。平均寿命は犬14.17歳、猫14.82歳。7歳以上の高齢犬は全体の53.4%、高齢猫は41.9%を占める。
 〇森(絵都)の目─犬が家庭に1頭いるだけで、子どもは弱いものへの思いやりや命の大切さを身につけていく。犬がもたらしてくれるものは大きい。しかし、老いが始まったら、今度は飼い主が引き受けなければならない。高齢を理由に捨てようとする飼い主がいれば、一人で抱え込んでぼろぼろになる飼い主がいる。一人で抱え込むには命は重すぎる。老犬ホームのような施設は、犬のことを一緒に心配してくれる人がいるという精神的な支えにもなるのではないでしょうか。(略)人間だけで生きていると窮屈に感じることはありませんか。ペットの存在は人間の社会に風穴を開けてくれる。安易に動物を飼うのがいいとは言えませんが、別の種族と交わりながら生きていくことは人間にとっても自然だと思う。よい形で一緒に生きていけたら、と願います。
 ▲わが家に生後2か月の仔猫(ウズ)がやって来たのは1990年8月2日だった。あれから25年近くが過ぎた。犬派、猫派と議論はかしましいけれど、森さんのおっしゃるように「ペットの存在は人間の社会に風穴を開けてくれる」と、わたしも思う。ノラへの批判が強いが、ノラのいのちへの不寛容は、人間のいのちへの不寛容に連動しているように思えてならない。

☆今夜はここまで。これからお風呂に入って寝ます。ではまた。おやすみなさい。

風邪は何とか乗り切れそうだ。(加筆・修正済み)

15/2/23(月)晴れ。暖かし。

☆昨夜は微熱(37.6度)が出て、汗を少しかき、目覚めたのは、午前12時過ぎ。喉の痛みは治まっている。熱も下がった(36度7分)。しかし念のため今日のプールは休むことにした。午後からは朝刊をチェックする。

☆朝日歌壇(2/23M)から一首。
  〇「人間のする事じゃないとひとは言う人間だからこそと思う」(横浜市・道鳶静江)。「先日、中東のある集団が人質を惨殺し、その動画を世界に流した。第一首はそうした衝撃的な件を念頭に、人間の非情さを悲しんでいる。高野公彦選評」、「道鳶さん、『イスラム国』の所業を見て感じる下句は、まさに真理を衝いた言だ。永田和宏選評)。
  ▲「人間のすることではない」という言葉に接するたびに、「人間だからすることではないのか」と思ってきたから、この短歌に共感できた。人間とは何か、人間らしさとは何か。永遠の問いなのだろう。

☆「皇太子さま 今日55歳─『戦争の記憶が薄れていく』『悲惨な体験正しく伝えて』」2/23M。
  〇戦後70年を迎えたことについて「戦争の記憶が薄れようとしている」との認識を示し、「謙虚に過去を振り返るとともに、戦争を体験した世代から、悲惨な体験や日本がたどった歴史が正しく伝えられることが大切」と指摘した。また、今年1年を平和の尊さを心に刻み、平和への思いを新たにする機会になればと思っています」と話した。
 ▲わたしは、朝日声欄の「語りつぐ戦争」を愛読している。
 〇母が怒った国防の竹やり訓練(主婦、N・N。三重県81歳。14/11/18M)─母は戦時中、かまどの火をたきながら、連日のように言っていました。「こんな戦争、勝ち目はない。日本は全滅してしまう。早くやめないと、早くやめないと」。小学生の私たちは学校で軍国主義教育を受けていた影響もあり、母の言葉は「うるさい」としか思いませんでした。そんな母を見て、父は「外に聞こえたら特高警察に連れ去られてしまうぞ。黙まりなさい」と諭していました。
  そんなある日、婦人会で「国防婦人会」と称して、竹やり訓練をするよう、お上(かみ)から召集されました。急ごしらえのワラ人形に向かって、竹やりで「エイッ」と突き刺す訓練です。母は婦人会長だったので、嫌でも訓練に参加しなければなりません。帰宅すると、母は「こんなバカなことをやって。米兵が機関銃で撃ってきたら、たちまち死んでしまう。何の役にも立たないことを、なぜやらなければいけないの」と怒っていました。母の言うことはもっともだと、子どもながらに思ったことがあります。
  〇忘れられない母の「いがった」(主婦、S・K。神奈川県77歳。14/11/18M)─日本が戦争に負けたのは、故郷の宮城県に住んでいた8歳のときだった。2人の姉は「アメリカに負けて口悔しい」と泣いた。でも、当時37歳だった母だけは違っていた。母には3人の弟がいたが、職業軍人だった弟が戦死していたのだ。「これ以上、弟の命をとられてたまるか。戦争が終わりさえすればいい」と言った。母は、ずっと我慢してきた思いをはき出すように続けた。「誰が、戦争をしてくれって頼んだんだ。政治家や軍の幹部たちは安全な所にいて、国民に血を流させて、餓死させて、日本中をめちゃくちゃにして」。 「今日からB29も飛んで来ねえど。田んぼで安心して仕事ができるど。電気をつけて、みんなの顔を見ながら、晩飯を食えるど。どうせ負けるって分かってたんだから、もっと早く降参していたら、原爆だって落とされないで済んだんだ。いがった、いがった。戦争が終わって。」母は80歳で亡くなった。私はいま、当時の母の気持ちがよく理解できる。
  ▲わたしの両親が、あの時代をどういう思いで生きていたのか詳しいことはわからない。ただ「竹やり訓練や消火訓練」について、「あほらしい」と親父が感じていたことは確かだ。しかし、その「馬鹿さ加減」をどこまで自覚してはいたかは不明だ。たぶん、「あの時代の空気」に煽られている部分があったのだろう。帝国大学教授ですら「大日本帝国陸海軍の勝利」に熱狂した時代なのだ。そんなとき、このような理性的な判断ができる庶民の女性がいたことが素晴らしい。また日本の敗戦・終戦を「いがった」と喜んだという女性の存在を忘れてはならないだろう。そしてまた45年8月15日正午、いわゆる「玉音」放送を土下座し号泣しながら聞く姿で当時の国民の心情を理解してもならないと思う。 

☆風邪は乗り越えた!その証拠に、「ブラックニッカ・クリアブレンド」の水割りがうまい。これからお風呂に入って寝ます。ではまた。おやすみなさい。
ギャラリー
  • 山小舎を閉じる。
  • 孫たちと久しぶりに山小舎へ行く。
プロフィール

藤田 敬一

アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

メッセージ

名前
メール
本文
記事検索
アーカイブ
カテゴリー
  • ライブドアブログ