15/1/30(金)曇り、時々雨。
☆8時半、起床。9時半、黒野共栄館に。岐阜市人権啓発センターのお二人と、「第2次岐阜市(後期)人権教育・啓発行動計画(案)」について最終調整をする。午後、プール。終わってイオンで買い物。今日は5%引き。お目当ては「初号ブラックニッカ復刻版」(税込・割引1783円)。もちろん「ブラックニッカ・クリアブレンド」4Lも。4時、保育園に。一希はなぜか今日を月曜日と勘違いして、上靴を保育園に置いておくと言って聞かない。居眠りしたりして曜日を間違ったのかな。
☆部落解放同盟中央本部機関紙「解放新聞」(2/2)が届く。「2015年度(第72期)一般運動方針(第1次草案)」が掲載されている。何よりも「国際情勢」から話を始める意味がわからない。わたしの勝手な推測だが、国際共産主義運動の「世界から論議を始める」という伝統がいまだに受け継がれているのではないか。部落解放同盟は身近なところから議論する習慣が身に付いていないのだ。「部落のおかれている状況と差別の実態」の部分では、「人口流失・高齢化・少子化」が部落解放運動の基盤を蚕食している事態への危機感が欠けている。それにもかかわらず、運動の軸は「同和行政・人権行政の後退を許さず行政闘争を強化」することにおかれる。「差別糾弾・謝罪要求・対策要求」で進められてきた水平社創立以来93年の歴史。部落差別の実状は大きく改善されてきたことは確かだ。にもかかわらず、マイナスイメージが付きまとうのはなぜか。いまだに「差別されている者の気持は、差別する側のお前らに分かるはずがない」と凄んでいる人物がいる。彼は「突破者」として行政交渉に前面に立っているつもりらしい。ところが、「人権課題の最初に同和問題を位置づけよ。同和問題の研修を実施せよ」との要求に自治体がきちんと対処できていない現実がある。「人権・同和」から、なんとか「人権」に変更したのに、またぞろ「人権・同和」という分けのわからない表現に逆戻りする現象が起こっている。こんなことでは先が思いやられるよなあ。
☆大山エンリコイサム(美術家。1983年生まれ。米ニューヨーク在住)「仏テロ事件に寄せて─『表現』 配慮あればこそ─相容れぬ価値観 尊重する真摯さを」(15/1/29E)
〇表現の自由は基本的人権の一つ。西洋の民衆が権利を求めた闘争の歴史のなかで、多くの犠牲と引き換えに確立されていったものだ。闘争によって勝ち取った自由は、あって当然の「不動」のものではなく、継続して守り続けなければならない。逆に言えばそれを、時代や環境の変化の中で、臨機応変に捉えるべき流動的なものと考えることもできる。(略)現代では様々な価値観が社会に共存する、価値相対的な時代だ。その現代で表現にともなう「不可避のリスク」を減らすのに必要なのは、「理念」の意義を硬直的に訴えることよりも、「配慮」ではないだろうか。
配慮とは、言ってみれば建前だが、現実にはこれが重要となる。価値観の異なる者同士が「理念」で分かり合えるというのはナイーブな考えに過ぎない。他者と共存するために、建前であっても、相容れない価値観を尊重できるか。建前にこそ、真摯さがある。(略)私は「理念」を硬直させて闘争するより、配慮によって変化させることの可能性を考えたい。そのようにしてこそ、結果的に、表現の自由を守ることもできる。
▲人びとの汗と涙と血によって勝ち取られてきた人権。それを不断・普段に守り、検証し、豊かにして行く努力。「おかしいことを、おかしいと言える」ことがスタートだ。
☆NHKスペシャル「傷ついた人に寄り添う」(1/30M。夜10時)。昨年9月に亡くなった元看護師・黒田裕子さん(享年73歳)の最期の三日間を記録したドキュメンタリー。「時間が足りない」という言葉が痛切だった。わたしに、そんな切実感があるかどうか。生き終えるまで、大切なことを訴え続けた黒田さんのメッセージとその姿に粛然とした。
☆明日(1/31)から、しばらくフリー。これからお風呂に入って寝ます。ではまた。おやすみなさい。
☆8時半、起床。9時半、黒野共栄館に。岐阜市人権啓発センターのお二人と、「第2次岐阜市(後期)人権教育・啓発行動計画(案)」について最終調整をする。午後、プール。終わってイオンで買い物。今日は5%引き。お目当ては「初号ブラックニッカ復刻版」(税込・割引1783円)。もちろん「ブラックニッカ・クリアブレンド」4Lも。4時、保育園に。一希はなぜか今日を月曜日と勘違いして、上靴を保育園に置いておくと言って聞かない。居眠りしたりして曜日を間違ったのかな。
☆部落解放同盟中央本部機関紙「解放新聞」(2/2)が届く。「2015年度(第72期)一般運動方針(第1次草案)」が掲載されている。何よりも「国際情勢」から話を始める意味がわからない。わたしの勝手な推測だが、国際共産主義運動の「世界から論議を始める」という伝統がいまだに受け継がれているのではないか。部落解放同盟は身近なところから議論する習慣が身に付いていないのだ。「部落のおかれている状況と差別の実態」の部分では、「人口流失・高齢化・少子化」が部落解放運動の基盤を蚕食している事態への危機感が欠けている。それにもかかわらず、運動の軸は「同和行政・人権行政の後退を許さず行政闘争を強化」することにおかれる。「差別糾弾・謝罪要求・対策要求」で進められてきた水平社創立以来93年の歴史。部落差別の実状は大きく改善されてきたことは確かだ。にもかかわらず、マイナスイメージが付きまとうのはなぜか。いまだに「差別されている者の気持は、差別する側のお前らに分かるはずがない」と凄んでいる人物がいる。彼は「突破者」として行政交渉に前面に立っているつもりらしい。ところが、「人権課題の最初に同和問題を位置づけよ。同和問題の研修を実施せよ」との要求に自治体がきちんと対処できていない現実がある。「人権・同和」から、なんとか「人権」に変更したのに、またぞろ「人権・同和」という分けのわからない表現に逆戻りする現象が起こっている。こんなことでは先が思いやられるよなあ。
☆大山エンリコイサム(美術家。1983年生まれ。米ニューヨーク在住)「仏テロ事件に寄せて─『表現』 配慮あればこそ─相容れぬ価値観 尊重する真摯さを」(15/1/29E)
〇表現の自由は基本的人権の一つ。西洋の民衆が権利を求めた闘争の歴史のなかで、多くの犠牲と引き換えに確立されていったものだ。闘争によって勝ち取った自由は、あって当然の「不動」のものではなく、継続して守り続けなければならない。逆に言えばそれを、時代や環境の変化の中で、臨機応変に捉えるべき流動的なものと考えることもできる。(略)現代では様々な価値観が社会に共存する、価値相対的な時代だ。その現代で表現にともなう「不可避のリスク」を減らすのに必要なのは、「理念」の意義を硬直的に訴えることよりも、「配慮」ではないだろうか。
配慮とは、言ってみれば建前だが、現実にはこれが重要となる。価値観の異なる者同士が「理念」で分かり合えるというのはナイーブな考えに過ぎない。他者と共存するために、建前であっても、相容れない価値観を尊重できるか。建前にこそ、真摯さがある。(略)私は「理念」を硬直させて闘争するより、配慮によって変化させることの可能性を考えたい。そのようにしてこそ、結果的に、表現の自由を守ることもできる。
▲人びとの汗と涙と血によって勝ち取られてきた人権。それを不断・普段に守り、検証し、豊かにして行く努力。「おかしいことを、おかしいと言える」ことがスタートだ。
☆NHKスペシャル「傷ついた人に寄り添う」(1/30M。夜10時)。昨年9月に亡くなった元看護師・黒田裕子さん(享年73歳)の最期の三日間を記録したドキュメンタリー。「時間が足りない」という言葉が痛切だった。わたしに、そんな切実感があるかどうか。生き終えるまで、大切なことを訴え続けた黒田さんのメッセージとその姿に粛然とした。
☆明日(1/31)から、しばらくフリー。これからお風呂に入って寝ます。ではまた。おやすみなさい。